どんぶりちゃわん

作品やイベントの雑感等々

メビウス

 「煙草って吸うとホントに空腹感って収まるもんなんだなあ」

 季節は秋に近づき夜の空気が冷たさを纏い始める中、僕は静かに呟いた。煙草を吸うと腹が膨れるぜ、なんて言葉に突っ込んだ記憶があるが、どうやらそれは本当だったらしい。

 なぜ煙草が吸いたくなったのか。わかりきっている問いを何度も自分に投げかけている。

 彼女との出会いはほんの2か月ほど前。特別な感情を抱いたわけではなかった。面白いやつもいるもんだ、とかその程度だった。しかし心の端に胡坐をかいて座られているような妙な存在感があった。

 

 「好きな銘柄はー?」「メビウスー!」

 もしアイドルになったらそんなコーレスはどうだと言われ、彼女はケタケタ笑っていた。

 

 頭の片隅に彼女を置きながら煙草を吸う。煙で肺が満たされていく。

 思い出を飲み込もうとしても僕にとってはただの呼吸になってしまう。元から思い出なんてものは存在しない。彼女と僕の時間が交わることはなかったからだ。あったはずの思い出が煙のように消えていく。

 

 僕が彼女を意識した時、もう彼女はいなかった。

 最初のうちは建前だけの悲しさを抱いていた。しかしどこへ行っても彼女の生きた痕跡がくっきりと見える。僕は彼女と同じ時間を過ごせなかったことに対して少し悔しさを覚えた。

 

 「好きな銘柄はー?」

 大勢の前で投げかけられた言葉。発したのは彼女の友人だ。

 他にいくらでも言葉はあっただろうに。しかも観客の歓声で声がかき消されよく聞こえない。いくら何でもタイミングが悪すぎる。

 「メビウスー!」

 答える声が聞こえた。数こそ少ないが、しっかりとそう聞こえた。

 

 僕と彼女の時間が交わることは、おそらくこの先ずっとない。しかしあの瞬間だけは、もしかしたら僕と彼女の時間は交わったのかもしれない。

 

 もう少し続けようと思っていた煙草だが、やっぱりこの箱でやめようと思う。