他人を消費すること。
他人のつらい経験を娯楽として消費するしかないのが本当に苦しい。
どれだけ願ったとしても自分だけの想いを直接伝えることの出来ない人間に対して、どうすることも出来ない無力な自分。感情のはけ口になることも出来ない。願うこと、祈ることしか出来ない。何もしてあげられない、出来ない。
何かしてあげたいというのはその人をつらさから解放してあげたいからでもあるけれど、一番はつらい人を見ていると自分もつらくなるから。自分がつらさから解放されたいから何かしてあげたい。他人の気持ちなんて本当は考えてないのかもしれない。手が届くところに苦しんでいる人がいるなら何かしてあげたい。
でも、元から手の届かない人に対しては何も出来ずに全てが終わる。終わってしまった。そこにあったのはつらい経験を乗り越えた末の大きすぎる輝きと、それをただ受け止めるしかないちっぽけな自分。あまりにも残酷すぎる。
それを「見たくない」と突っぱねるのは簡単だ。けれどそうしたら自分の中でその人の頑張りはどうなる。見せてくれたものを踏みにじるつもりか?そんなことはしたくない、絶対に。
目を背けているうちにどんどん距離は離されていく。見ないようにしたところで結局チクチク痛み出す。
止まりたくはない、止まれない。僕は前へと歩かなければいけないのだ。止まるなと、そう言われてしまったから。自分で止まりたくないと思うから。
向き合わなければいけない。どうしても。
僕は今日も今日とて他人を消費して生きていく。誰かのつらい経験を血肉として生きていく。全て無駄にはしない。こんな歩き方つらいに決まっている。今だってつらい。でも、向き合う方法なんて僕にはこれしか思いつかない。不器用で真っ直ぐにしか歩けないから。これが僕なりの敬意の表し方だ。